Votum stellarum




「今日は、とてもいい夜だ」
 カーテンを開けて、夜の空を見上げた。
 建ち並ぶビルとうっそうとしたスモッグのせいで、瞬く星はそれほど見えないものの、漆黒に浮かぶ月は幻想的な美しさを漂わせている。
 幻想的ではないものの、まるで己の瞳のようだ、と苦笑して。
「――行くのか?」
 不意にかけられた声に振り向いて、うん、と頷いた。
「こういう夜は、僕らが飛ぶのにちょうどいいでしょう?」
 悪戯っぽく言うと、そうだな、と応えて声の主が笑う。
 それは、とても楽しそうに。
 ふと、開け放たれていた窓から風が入り込んで、白いカーテンと一緒に金色の髪が軽やかに翻った。
 長い前髪が風に遊ばれているので、その顔はよく見えなかったけれど。
「それじゃあ、らしくいきましょうか。相棒?」
 口元は確かに、笑みを刻んでいた。
 さあ、飛び立とう。闇の中へ。
 

 イーストシティの一角。
 ビルの影を切り裂くように、地面から生える何本もの光の柱が夜の空を舐めまわしている。
 その柱の根元には、動き回る人の影。
 広大な屋敷の敷地内で、すでに何十人もの制服姿の人間が集まって、光の柱と同じように目まぐるしく動いていた。
「本当に来るんですか?」
「ああ、予告状は届いてるらしいからな」
 真新しい青い制服の新人警官に話し掛けられて、金髪に咥えタバコのままのジャン=ハボック刑事は頷いた。
 彼の手には、その予告状と思われるもののコピーが収まっている。
「……某月某日、午前一時に『雷の涙』を頂きに参ります。
 ――怪盗アルフォンス」
「まったく、今までこいつに出しぬかれてるせいで、うちの警部は大変だ」
「大変なんですか」
 かなり他人事な新人警官の発言に腹が立つことはなく、ハボック刑事が器用にため息をついた。
 神出鬼没の怪盗。
 年令、一切の経歴、犯罪暦不詳。
 ただ分かっているのは、こうやって犯罪予告をイーストシティ警察本部に寄越してくること。
 現に、今回予告状を受け取ったことで警備を買って出ると、大企業の会長は渋々ながら了解した。
「もうすぐ予告の時間だ。配備につくぞ」
「はっ」
 表情を引き締めて言うと、彼はぴっと敬礼をした。
 深く被った帽子の下で、小さく微笑んで。


 警官たちが配備についた。
 部屋の中は広い。どこにでもある学校の教室と同じ位だろうか。
 ずらりと警官が並ぶ部屋のその奥、ガラスケースに保管された大きな琥珀の珠が鎮座している。
「あれが『雷の涙』ですか」
「そっ。でかいだろ?」
「でかいですね」
「時価数億と言われてる貴重な琥珀だ。あの琥珀の中には、珍しい物が閉じ込められてるらしい」
 指示どおりの配置についた二人の会話を遮るように。
「――なんだ、ハボック刑事。彼は?」
 と、別の男性の声が割り込んできた。黒髪に切れ長の目をした男は、ちらりと新人警官を睨み付ける。
「……?」
「バカ、挨拶しろ。ロイ警部だよ」
「これは、失礼しました」
 こそこそと小声でツッコミを食らって、警官は弾かれたように敬礼した。
 ……と。

 ばしゅん!!
 突然の出来事だ。
 突如、どこからともなく噴き出した白い煙に、その場の警官たちがどよめいた。
 何だ、何があった、と煙を掻き分ける男たち。
 その中には、当然ロイ警部やハボック刑事も混じっていたわけだが。
 煙がやがて晴れてきた時、誰かが指を差して叫ぶ声がした。
「――け、警部!!」
「な……『雷の涙』が!!」
 弾かれたようにガラスケースの方を向いたロイ警部が、目を見開く。
 ガラスケースの中に鎮座してしていたはずの『雷の涙』が、いずこともなく消えていた。
 ざわつく室内。
 慌てて辺りを見まわす警官たちに。
「こんばんわ。お久しぶりです、ロイ警部」
 涼やかな青年の声が響いたのは、その直後だった。


 すらりとした長身。コバルトブルーのタキシードにシルクハット。さらに同じ色で光沢を抑えた、踝まで隠れるほどの長さのマント。
 細やかな銀細工を施したモノクルの奥、青い瞳が柔らかく輝いている。
 強化ガラスで設えたケースの上ですらりとした長い足を組んで腰を下ろし、上質そうな白い手袋をはめた手がその中のものを弄ぶ。
「い……『雷の涙』……」
 ハボック刑事が、呆然と声を上げた。
「頂きに参りました、警部。予告どおり『雷の涙』をね」
 言って、青年は手の中の琥珀にそっと口付ける。
 青年にしては幼く、少年にしては大人びた、声。
 ずい、と1歩近づいて。
 ロイ警部が、不敵な笑みを浮かべた。
「来たか。――『怪盗アルフォンス』!」
「あんまり、皆さんと遊ぶ時間はないんですよ。僕には」
 少し困ったように笑って、青年――怪盗アルフォンスが立ちあがった。
 無造作に『雷の涙』を懐にしまい、その指先で軽くモノクルを直す。
「かかれ!」
 ロイ警部の号令が響き、警官たちがどっと怪盗に襲い掛かった。
 その青い瞳が、一瞬鋭く輝き。
「不躾だなぁ」
 小さく呟いたかと思った直後。
 一人の警官の身体が、怪盗アルフォンスに触れたか、触れないかのタイミングで。
 いとも簡単に浮き上がり、背中から倒れたのだ。
 あまりにも一瞬の出来事に、呆気に取られる一同をよそに。
 ロイ警部が、さらに前に進み出た。


「……そろそろ、行くとするか」
 屋敷とは、目と鼻の先の位置にある駐車場に、シルバーのオープンカーが一台。 
 そこに鎮座する青年が、ぽきぽきと関節を鳴らした。
 長い金色の髪を三つ編みにしている、華奢な身体つきの青年だ。
 少しつりあがった金の瞳。
 赤いフード付きのコートに黒のジャケットと革のパンツで身を包んだ彼は、ノートパソコンを開けると、にやりと笑みを浮かべる。
「さあ、パーティの開始といこうか」
 呟いて、電源の入ったキーボードを勢いよく叩き始めた。

 
「がっ!」
 残る一人の男の首筋に手刀を打ちこみ、怪盗アルフォンスはひらりとその身を翻した。
 ロイ警部の目の前で、部下の者が力なく崩れ落ちていく。
「さすがは怪盗アルフォンス、といったところかな」
「お褒め頂き、光栄至極」
 すべての部下が倒されてもなお、その口調が揺らぐことはない。
 そんな男に声をかけられ、怪盗アルフォンスは息一つ乱さずに向き直って微笑んだ。
「君のような有能な人間が部下であれば、私の仕事も楽になるのだが。まったく、世の中というものは上手く行かないものだな」
「ご冗談を。僕は、尻尾を振る犬にはなりたくありません。僕の美意識に反します」
「そうか」
 ロイ警部は小さく言って、手をひらりと振った。
 その直後。
 室内に、突如大きな電子音が鳴り響いた。
 いや、それだけではない。
 何かを察して、怪盗アルフォンスが後方に跳ぶ。
 その足元に、赤い光が叩き付けられた。後には、白い煙と共に黒く焦げた痕が床に残った。
「……レーザー光線」
「まだ光線は君を狙っているようだぞ」
 ロイ警部の言葉どおり。
 室内の壁から無数のカメラのような物がきょろりと無粋な瞳を覗かせ、怪盗アルフォンスの姿にいくつもの赤い照準光を灯した。
「困ったなぁ、一張羅なんですけどね。これ」
 苦笑する怪盗アルフォンスの羽織る、マントの一辺が、黒く焼け焦げていた。
 あともう数瞬遅ければ、身体を焼かれていただろう。
「さあ、置いていただこうか。その『雷の涙』を」
「そういうわけにもいかないんです。女神が、これをご所望でして」
 ロイ警部の言葉にも柔らかく答えると、怪盗アルフォンスの瞳が、きらりと光った。
「……そうだよね、相棒?」

「待ってました」
 その頃、オープンカーを陣取る青年がにっと笑みを浮かべた。
 すでに細工は仕掛けてある。あとは、たった一つのキーを押すだけ。
 しなやかな指が、とん、と。
 エンターキーを押した。


 変化は、すぐに起きた。
「な、何だ?」
 突然、電子音が鳴り止んだ。
 と同時に、顔を覗かせていたはずのレーザー光線の発射口が次々に沈黙する。
 小さなシャッターが閉じられ、最後には怪盗アルフォンスの行く末を脅かすものが無くなった。
「制御室、何をやっている?!」
『ダメです、こちらの命令に、システムが反応しないんです!』
 肩にかけた無線機に声を上げると、困惑したような男の声が返ってきた。
 その一瞬を見逃さずに。
 怪盗アルフォンスが、動いた。
 背後の壁に近づきながら、両手を合わせた。
 そしてその壁に手をつくと。
 バシッ!
 激しく輝く光が瞬き、その後には大きな扉が姿をあらわしていた。
「――しまった!」
 舌打ちをするロイ警部に、怪盗アルフォンスは小さく微笑む。
「それじゃ、お暇します。ごきげんよう、警部」
 深々と丁寧に辞儀をして、その扉に向き直ると。
 彼は、勢いよく扉に体当たりをぶちかました。
「バカな、ここは何階だと……!!」
 ロイ警部が驚くのも無理はない。
 もともと『雷の涙』が安置されている部屋は3階。
 しかも、逃げられないような間取りの部屋をあてがったのだ。
 彼が扉を作って開けたとしても、壁の向こうは空中。そのまま落ちてしまうだろう。
 ……だが。
「な……」
 作られた扉の向こうで。
 怪盗アルフォンスは、空を飛んでいた。
 あのコバルトブルーのマントが、そのままグライダーに変化していたのだ。
 呆気に取られるロイ警部をよそに、彼は悠々と空の支配者となって飛び去っていった。


「……お、来た来た」
 額の上に手をかざし、赤いコートの青年が呟いた。
 彼の視界には見えるのか、闇夜にも負けないほど鮮やかな色彩の影が、ゆっくりとこちらに近づいてくる……はずなのだが。
「……ん?」
 ふと、なにかおかしいことに気がついた。
 妙にふらふらしている。
「……ちょっと、待てよ……」
 背中に、冷たい汗が伝う。
 このままでは……。
「――やべぇ!!」
 青年はぐっとアクセルを踏み込み、車を走らせた。

「今日の仕事は、案外あっさり終わったなぁ」
 怪盗アルフォンスが操るグライダーは、風をものともせずにある一定の方向へ進んでいた。
 さすがにレーザー光線の攻撃には驚いたが、相棒が手伝ってくれて助かったと思う。
 彼のタキシードの襟に、小さなピンタックが刺さっている。それは超小型の通信機になっていて、まったく別の場所にいる人物と連絡を取り合っていたのだ。
 相棒はあらかじめ屋敷の内部をこと細かく下調べしておいたらしい。レーザー光線を操る制御コンピューターに侵入して、沈黙させてくれたようである。
 通信機を作った彼女にも、感謝しなくては。
 そう思った矢先のことだ。
「……あれ?」
 なんだか、グライダーの調子が悪い。
 背中に背負った専用のエンジンパックから、妙な音が出ている。
 このグライダーはエンジンから動力を貰って飛ぶ仕組みなので、事前に動作確認や飛行実験を繰り返したはずなのだが……。
 支える支柱もまっすぐのはずだしと、怪盗アルフォンスは背後を見て。
 顔が、はっきりわかるほど引きつった。
 中央の支柱が、四分の一くらいのあたりからわずかに曲がっている。
 遠目から見れば大した事のない曲がりだろうが、それでも安全に飛ぶには心もとない。
 そして、彼の動揺に追い討ちをかけるように。
 ……ぷすん。
 と、間抜けな音を最後に、背中のエンジンパックから音が聞こえなくなった。
 そこまでならまだ大丈夫だろう。あとは風の方向に任せて飛べるのだから。
 そう思った瞬間、今度は、ばきん、と鈍い音が背後から聞こえてきた。
「……まさか……」
 呟く間もなく、彼の身体は地上への落下を始めていた。

「ぎゃあ、やっぱり! あのバカ、最後の詰めが甘いんじゃねーかっ!!」
 悪態をつきながら、赤いコートの青年がハンドルを捌く。
 猛スピードで発進した車で、目的の影を捕らえた。
「聞こえるか!? グライダー切り離せ!!」
 付けたインカム越しに怒鳴ると、おもむろにアクセルとブレーキを交互に踏み分けた。
 ぐんぐん近づいてくる影に、南無三、とばかりにハンドルを切る。
 ――どすんっ!!
 人間の身体が、シートのクッションに沈む音がした。
 恐る恐る振り返り、目的の影を確認すると、ひたすら大きな安堵のため息を一つ。
「……間一髪……」
 その後部座席には、間抜けにひっくり返ったタキシード姿の青年が、照れ笑いをしながら片手をひらりと上げていた。
 
 
「……やー、お見事」
「大丈夫か、おい」
「何とか受け身は取れたから。怪我はしてない」
 体勢を立てなおし、青年――怪盗アルフォンスが笑う。
 被っていたはずのシルクハットは、後部座席に座る彼の横に投げ出されたままで、今は短く刈り込んだ金髪を風になびかせていた。
「で、あれは?」
「ああ、あれならここ」
 言って、懐から取り出したのは、傷一つない『雷の涙』と呼ばれる琥珀の珠。
「お疲れさん、相棒」
「あとはそっちの仕事だから、頼むよ。相棒」
「おうよ。任しとけ。ついでに、ちょーっとお仕置きも入れといた」
「お仕置き?」
 鸚鵡返しで尋ねる怪盗アルフォンスに、にんまり笑って青年が答える。
「下調べの時に、色々面白いことが分かったからな。証拠並べて、内部告発装って、匿名で警察にチクってやった」
「なるほど。じゃ、明日のニュースが楽しみかもね」
 後部座席と運転席で、二人笑った。

「……ところで、どうするんだ?」
「何が?」
「ほれ、お前が使ってたグライダー」
「……あ」
 苦笑いを浮かべたまま、運転席の青年がハンドルを操作して。
「んじゃ、回収しますか」
「恐れ入ります」
 楽しそうな笑い声が、尾を引くように流れた。


「……どうだ、調子は?」
「ええ、何とか……」
 ロイ警部が手を差し出して、何とかハボック刑事が立ち上がった。
 怪盗アルフォンスに打ちこまれた拳の跡を確認する。晒された素肌にうっすらと残るそれは、思ったほどの衝撃を与えてはいないようだった。
「十何人もの警官をあっさりのめすとは、な」
「それでも、思ったほど力入れてないっすよ、これ。これなら、一日寝てれば消えるんじゃないっすかね」
 衣服を戻して息を一つ付くと、ロイ警部に向き直る。
「……あの新人警官に化けてたみたいっすね。あいつ」
「ああ。パンツ一枚で気絶している奴がいると、ファルマン巡査から報告があった」
「うわ、可哀想に」
 何故か胸の前で十字を切るハボック刑事に、ロイ警部は小さな苦笑いを一つ浮かべる。
「……さて、また署長の胃薬を買いに行かなければな」
「警部、それ面白がってるんじゃないっすか?」
「気のせいだ」
 不意に、苦笑いをするロイ警部の懐から音が鳴り出した。
 そこから携帯電話を取りだし、落ちついた声で対応する。
「私だ。……ふむ、そうか。わかった」
「何か状況が?」
 電話を終わってから尋ねてきたハボック刑事に、ロイ警部は先ほどと代わらない口調で答えた。
「匿名で内部告発があった。会長の脱税と、さっきの『雷の涙』が盗品である、とな」
「てーことは……」
「今、ホークアイ刑事が逮捕状を取りに行っている。こちらに届き次第、会長を逮捕する」
「わっかりました」
 頷き、ハボック刑事はぴしりと敬礼した。


 星屑の見えない街の中。
 それは突然やってくる。
 失われた星たちを、取り戻すために。
 消えた輝きを、再び瞬かせるために。

Information :
鋼では始めて書いた現代パラレルもの。
パラレル書くときはいつもなんですが、基本的に大まかなキャラ設定だけ考えて、
あとはどんどん設定を後付けしていきます。

だから、割とネタ的にはカオスになっていく。