きっかけは、携帯電話に入っていた留守電メッセージだった。
任務がある。それだけの、簡単なメッセージ。それを思い出し、少し大きなビルの前で立っている。
喉が渇いたからと近くの自販機で買い求めた微糖の缶コーヒーは、プルタブを引き上げたままですっかり温くなっていた。ふとそれに目線を落とし、唇をつけると一気に煽る。
だが、すぐに少し眉を潜め、
「やっぱり、自分で淹れた方がいいですね」
ため息をついて呟いた。空になった空き缶を専用のゴミ箱へとすべり落とし、また先ほどのビルの前に戻る。
ふと、顔を上げる。こちらに向かって真っ直ぐ歩いてくるみなれた姿を確認し、ひらりと右手を振った。
「こっちです、レント」
名を呼ぶと、小さく頷いて少し歩調を速めて近づいてきた。
ふわり、風に舞う癖のついた軽やかな銀髪に、瞳は自分と同じ深い紫暗。長袖のTシャツに細身のスラックス、靴までも全て黒で纏めた出で立ちだ。表情は至って涼しげで、どこか冷たい雰囲気すらある。
年齢も背丈も変わらない彼は、青年というには少し幼く感じる。かといって、少年と表現するには、どこか落ち着きすぎている。微妙なバランスを保っているのだ。
「すまない。待たせたか」
発した声も、どこか硬質的なものだった。短い返答ではあるが、簡潔で判り易いともいえる。聞く人間によっては、温もりのない冷ややかな人間と捉えるかもしれない。
だが、それに気にした風でもなく、
「いいえ、ぴったり時間通りです」
そう言って、近づいてきた男に微笑みかけた。
無事に合流を果たした二人はビルの中に入ると、まずフロントの女性に声を掛ける。
「すいません、――大宙ヒカルさんという方に、お取次ぎをお願いしたいのですが」
「かしこまりました」
柔和な笑みを浮かべて言うと、彼女は丁寧にお辞儀をして答えた。
一見、どこかの大きな企業が経営しているように思われるが、しかし彼は正体を知っている。
レゲネイドウイルスによって感染、発症した者――すわなち『オーヴァード』と一般市民の共存を理想に掲げ、彼らを管理、隠蔽し、時には害成すものを排除する。
『ユニバーサルガーディアンネットワーク』――通称『UGN』――の本拠地の一つだ。
男――レントと二人でこのビルに来たのは、この双枝市支部のトップである人物から、直々に依頼があってのことだ。
今の生活を始めたのは、まだ数年とも行かない。二卵性双生児の弟にあたるレントとも、長い年月を共に過ごしてきたわけではないのだ。
それでも。昔の生活よりは遥かにマシだと思う。
つい、とシャツの袖を引っ張られた。そちらの方向を見ると、レントがある一点を指差している。
「ああ、すいません。考え事しちゃってて」
「問題はない。今きたところのようだ」
慌てて謝ると、特に気にしていない様子で言葉を返してくる。相変わらずの態度に苦笑しつつ、レントが指し示したエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターを降りて少し歩くと、奥のほうにドアが見える。勿論、途中にも幾つかドアが見えてくるのだが、二人にとって関心のあるものではなかった。目的の場所に着くと、どちらからともなく頷き、レントのほうが一歩下がる。軽い調子でドアを叩く。
「どうぞ」
すぐに柔和な女性の声が返ってきた。それを受けて二人視線を合わせ、ドアノブを捻って前に押し開ける。
待っていたのは、一人の女性だった。
色素の薄い髪を短く切り、最小限に止めた化粧を施している。派手ではないが、鋭角的なデザインのパンツスーツをかっちりと着こなした美女である。
「トラン=セプターとレント=セプター、参りました」
改まった口調で声を掛けると、彼女は小さく頷いて微笑んだ。
「ええ。よく来てくれたわね。急に呼び出してごめんなさい」
柔らかい口調で言う彼女に、名乗ったトランが『気にしていない』というように軽く手を振る。やり取りを静かに見ているレントが、その横で淡々とした声を上げた。
「それで、依頼とは?」
小さく頷いたかと思うと、彼女――大宙ヒカルは、右手を上げて緩やかに振った。たちまち、何もなかったはずの空間にいくつものディスプレイが出現する。何度も見ている光景ではあるが、それでもやはり驚きは隠せない。
ヒカル本人も、聞けば実力のあるオーヴァードなのだという。いざとなれば、上空からレーザー光線を召還することもできるとも聞いた。
凄まじい戦闘能力をも持つ彼女だが、こうして立っているヒカルはあくまでも穏やかで、とてもそうには見えないだろう。
だからこそ、この双枝市のUGN支部長として指揮を取っているのだろうが。
「あなたたちに来て貰ったのは他でもないわ。ある人物の護衛を依頼したいの」
切り出して、ヒカルはもう一度空中に向かって手を振った。その仕草は、まるでオーケストラの指揮官を連想させる。
彼女の指に従い、虚空のディスプレイが目まぐるしく入れ替わっていく。やがて一人の人物の写真が浮かび上がると、そのままの状態で静止した。
「――かの……じゃないですね。彼は?」
ほんの一瞬戸惑い、トランがヒカルに問う。発言に迷ったのは、その顔が柔らかなラインで構成されていたからだ。彼女は悪戯っぽく笑んで、同じように写真を見上げる。
「あなたの目は確かなようね? 私自身も、一瞬間違えそうになったけれど……『彼』はクリス=ファーディナント。双枝市内の大学に通っているそうよ」
写真の中の『彼』は、肩口まで伸びた柔らかな金髪に、澄んだ深い青の瞳を持っていた。細く整った眉といい、控えめな小さい鼻といい、口元に浮かぶ微笑みといい、一見すれば清楚な雰囲気漂う美少女、といった感がある。
それでも、滑らかそうな首元には、わずかにではあるが喉仏と思しきものがあったので、トランはかろうじて『男性』だと見抜くことができたのだ。
「簡潔に言うわ。彼に関して、支部では『未確認のオーヴァード』であることが確認されたの。あなたたちには、彼の護衛、ならびに監視を行ってもらいます」
説明しながら、ヒカルはデスクの引き出しから大きな茶封筒を取り出し、トランに差し出した。受け取って中を確認すると、その書類にはクリスという人物に関する詳しい情報がこと細かく記されていた。
「未確認というと、まだ覚醒はしていないと?」
「いいえ。覚醒はしている……という情報にはなっているわね」
「ということは……?」
渡された書類を捲りながら尋ねると、どこか曖昧な言葉が返ってきた。トランの横で、レントが首を傾げる。
「正確には、本人に『覚醒の自覚がない』のね」
ヒカルの言葉に、二人の頭の中に疑問符が浮かぶ。しかしすぐに、トランはそれを打ち消した。
「確か、支部の方では以前にも同じようなケースがあったと聞きますが」
「ええ。そのとおりよ」
確認を込めた問いに、彼女は否定もしなかった。この双枝市支部では、同じようなケースの事件が起きて、それを在籍しているチルドレンのエージェントが解決させたというのだ。ただし、今回の任務とは関係があるのかどうかは判らないので、言及するべきかどうか迷う所だが。
「作戦の方向性は、あなたたちに任せます。接触したいと言うのなら、必要な書類などはこちらで用意させますから……」
「――いえ、その必要はなさそうです」
よどみなく続くヒカルの説明を、レントがふいに遮った。説明の合間に渡しておいた書類をぱらりと捲り、彼女の方を見る。
「彼の通っているという大学は、わたしも通っているところです。学部こそ違いますが、接触はしやすいはずです」
「あら」
ヒカルが目を丸くした。そういえば、日本で学びたいと数少ない要望を出した弟のために、以前色々と骨を折ったのを思い出す。
「ただ、彼が一人暮らしをしている、というのがありますので、その辺りくらいかと」
「――そうね。ではそれに付随する書類や手続きは、こちらで何とかしてみましょう」
「お願いします」
ゆったりと微笑むヒカルに、レントが短く言って頭を下げる。その間にも、トランは先ほどまで目を通していた書類の内容を反芻していた。
「……このクリスという少年は、交換留学でこちらに来ているということですが?」
「ええ。お父様の薦めだそうよ。その他にも、日本での交換留学を薦めた人物もいるそうだけど」
「この男ですね」
レントが、書類の束に挟んである写真を取り出してみせる。そこには、いかにも聖職者然といった表情の、スキンヘッドの厳つい顔が写っていた。
「彼は、マティアス=マディンセルね。市内で『神の家』という施設を運営しているらしいわ」
「……うわ。ものすっごく胡散臭そうですね」
「言うな、トラン。わたしも思っていたところだ」
「……兄弟揃って、容赦ないのね。あなたたち」
身も蓋もないコメントをつけると、横でフォローになっていないフォローを入れるレント。それを真近で聞いたヒカルも、眉を下げて苦笑した。どうやら、否定するつもりもないらしい。
「――彼は、この辺りでも、神の教えを説いているそうよ」
「内容はどんなのですか?」
ふと、駅前などでよく見かけるぽつねんと立つ小柄な女性の姿を思い浮かべた。彼女たちは大体聖書を誇らしげに片手で掲げ、熱の篭もった口調で神の愛を切々と語るわけだが、その辺りを想像してヒカルに尋ねてみる。
対して、彼女は困ったような顔をして、ゆっくりと横に振るのみだ。
「……ごめんなさい。いつも支部の中にいるから、あまり外の様子は判らないの。先ほどの話も、うちの所員たちから聞いた話よ」
申し訳なさそうに言いながら、ちらりと視線がデスクの方に向けられる。釣られてレントと二人、その方向を見て――ぐっと息が詰まった。
デスクの上には、幾つもの書類の束が塔となって存在していた。確か、自分たちがこの支部長室にやってきた時は、まだ塔は一つだけだったはずだ。それが今では、束の高さも明らかに違うし、同じサイズの塔が三つも建造されている。
そういえば、ちらちらと入れ替わるように支部の職員らしき人物が支部長室に訪れているが、誰もがやたらと重そうな書類の束を抱えていたような気がする。
「――確かに、難しいですね」
淡々とした、しかしどこか呆然とした口調でレントが呟くと、いつものことというように苦笑を浮かべるヒカル。
「これでも、以前よりは随分と減った方なんだけれどね。……ああ。一つだけ忘れるところだったわ」
そこで、ふと表情が引き締まる。彼女はトランとレントをひたりと見据えた。
「今回のあなたたちの任務は、このクリスさんの護衛と監視。それは先ほどもお話したわね?」
「はい」
頷く二人。ヒカルは少し目を伏せて――やがて、意を決したように顔を上げた。
「もうひとつ。万が一――、彼が暴走した際には、あなたたち二人の責任を以って『処分』していただきます」
その言葉に、にわかに緊張が張り詰める。真剣な表情になった二人の視線に臆することなく、彼女は説明を続けた。
「先ほども言ったけれど、彼はどうやら一度覚醒した経歴はある。しかしその自覚はしていない――。つまり、何らかのショックで当時の記憶を無くしているとも考えられるわ」
「記憶――ですか」
呟くトランに、小さく頷くヒカル。
「残念ながら、こちらの方でまだクリスさんが発症したシンドロームは確定できていないの。今回の剣は、不確定な要素が多すぎるから、あなたたち二人に任務を依頼するのは……正直、迷ったわ」
「それを、敢えて我々に依頼する理由は?」
無表情のままで、レントが問う。
「まずひとつは、今回のターゲットが日本人ではないこと。本部からエージェントを要請することも出来るのでしょうけれど……時間がないの。もう一つは、あなたたちが比較的年齢が近いこと。年齢が近い人物なら、まだ護衛をするにしてもやりやすいでしょうから」
「なるほど。理解しました」
問われた理由を説明したヒカルに、納得がいったように頷いた。あまりにも淡々とした口調に、一見何を考えているのか判らないと思われがちだが、トランはまだ短い期間の中で、レントが基本的に素直な気性であることを見抜いていた。
「……では、今回の任務を承ります。彼――クリス=ファーディナントの護衛、及び監視。万が一、暴走した際の処分。以上ですね?」
静かな口調で確認を兼ねた宣言をすると、ヒカルは安堵したように一つ頷き、微笑む。
「それから、彼の護衛に関する報告は、逐一行っていただきます。少し面倒と思うかもしれないけれど、大切な事だから」
「判りました」
付け加えられた言葉に二人で頷くと、深く一礼してドアの方まで歩いていく。
「では、失礼します」
そしてもう一度深い辞儀をしてドアを開けると、その場を離れた。
Information :
……主人公がいねぇ!!(謎笑
初っ端はとりあえずこんな感じで。
オリジン組がやたらと出張ってきそうな予感がひしひしと。
……で、これのどこが『ルージュ』なんだろう……。