今目の前で、怯えた少女がへたり込んでいる。
 滑らかな肌、柔らかそうな肢体。その中に湛えられているはずの――甘そうな血潮。
 一歩進み、少女に近づく。引き連れた短い悲鳴と共に下がろうとするが、彼女の身体は竦みきっているのか1歩たりとも動いてはいない。
 この少女の肉は、さぞかし美味いことだろう。四肢を齧り、血を啜り、内臓を食む己を想像する。
 今日の獲物は上玉だ――、思って、大きく裂けた口からだらりと長い舌が伸び、濁った色の唾液が滴り落ちる。
 もう一歩進み、少女のすぐ傍まで近づいた時。
 りぃん――、と。透明な音が響いた、気がした。

「――見つけた」
 静かな低い声が、その足を止めた。声のした方に振り返った『それ』は、到底人間と判別できるものではない。判りやすく言うなら――『化け物』だ。
 瞳孔のない目が、視界に捉えたのは、まだ若い男。
 やや長い金髪に、青い瞳、華奢ではあるが、均整の取れた身体つきをした若者。
 本能が告げる。不味そうな獲物が近づいてきた、と。
 だが、もう一つ。警告を発する音のようなものも、感じていたのだ。
 こいつは、自分と同じ――『化け物』だと。


「――!」
「どうした?」
 ふと顔を上げたトランに、レントが短く尋ねる。暗い紫暗の髪が軽く踊り、ある一点を真っ直ぐに見つめていた。
「どうやら、彼もお客さんを見つけたようです」
 薄く笑みを浮かべ、彼はレントのほうを見た。髪と同じ色の瞳が、瞬く間に刃の切っ先のような鋭さを閃かせて。
 見つめ返すレントもまた、その瞳に静かな焔を滾らせる。闘うための、理由はそこにあった。
「行きましょう。レントは足止めを。わたしは、クリスを援護します」
「……だが」
「いいんです」
「トラン」
 やんわりと遮るトランに、レントが焦れたような声を上げる。彼は、今の状態をすぐ傍で見ているからこそ言うのだろうが、だからといってここで大人しく待つわけにもいかない。
「そのために、あなたもいるんでしょう? それに、大丈夫」
 確信をもった言葉に、レントが不思議そうに首を傾げ、無言で続きを促した。
「わたしたちは還って来れる。大切な人たちが、待っているんですから」
 沈黙したのは、ほんの数秒。やがて大きくため息をついて、レントが頷いた。
「わかった。だが、あいつも言ってるだろう? あまり無茶はするなと」
「ええ。その辺はいい加減信頼して下さい。――さあ、行きますよ」 
「――了解」
 頷き、感じた気配の方向へ走り出す。彼らが立ち去った後に残されていたのは、すでに息をしていない強化装甲服やジェラルミンシールドで武装していたはずの、黒服の男たちだった。

「うぁっ!」
 若者の身体が、派手に吹っ飛ぶ。背中から勢いよく叩きつけられた拍子に、内臓の方まで衝撃が伝わった。ずるずると崩れ落ち、その場に蹲りながら激しく咳き込む。下手すると、肋骨も幾つか折れたかもしれない。
 しかし上げたその顔には、恐怖などは一切なかった。代わりに浮かんでいるのは、むしろ今の自身の危機を楽しんでいるかのようにも感じるほどの薄い笑み。
「はは。……やっぱり、強いな」
 小さく呟くその声も、どこか愉悦を含んでいた。やはり強くない相手では、面白くない。
 己の身を守るために交差させた両腕からは、赤い鮮血が滴り落ちていた。真っ白だったはずの長袖のTシャツも、赤く染まって所々が醜く裂けてしまっている。
「キュマイラと……エグザイル、か」
 よろめきながら立ち上がり、目の前の化け物をじっと見据える。漆黒の体毛に覆われ、強靭な後ろ足だけで立つ化け物。見た目は犬か猫かに見えるが、そのどちらでもない凶暴さを持ち合わせているようだ。そして、何よりも異質なのは、肘と思しき個所から鞭のように垂れ下がっている手だった。
 鉤爪のなっている指先から、ぽたりと落ちた液体は、つい今しがた若者の腕を切り裂いた名残であろう。
「だけどまだまだ、俺は……これくらいじゃ死なない」
 大きく深呼吸をして、若者は告げた。ゆっくり降ろす両腕から流れていたはずの血は、何時の間にか停まっていた。裂けた袖から覗いていた惨たらしい傷跡も、綺麗さっぱり塞がって消えている。
『ヤハリ、貴様モ……『おーヴぁーど』……?』
 不意に、化け物の口から淀んだ声が零れ落ちた。少し肩を竦め、若者は再び薄く笑う。
「そういうこと。……言っておくが、俺はお前の思うように簡単に殺されない」
『思イ出シタ……! 貴様……『ヴぃんとりったー』……!」
 まだ少し聞きなれない二つ名を口にした化け物に苦笑する。何時の間にやら、この名前も有名になったということらしい。
「お前の我侭も、ここまでだ。それに……」
 その場で身構え、さらに言葉を重ねる。
 彼の中の確信が、今まさに現実のものになろうとしていた。
「それに、俺一人じゃないんでね」
 若者の言葉が言い終わらないうちに、全く異なる気配が辺りを包み込んでいく。
 それは強いて言えば――冷気。
「……『アイスジャベリン』……」
 低く、囁くような声と共に、化け物の頭上から無数の氷の槍が降り注いだ。激しく打ち付けられる音と共に、あたりに白い氷霧が立ち上る。
『オオオオオオおおおおぉぉォォォぉぉ!!』
 吼える化け物が氷霧に覆われていく様を見つめる若者のすぐ傍で、穏やかに囁く低い声が滑り込んできた。尋常ではない敵を相手にしてからというもの、最も聞き慣れた声。
「……お待たせしました」
「いや、それほど待ってないさ。トラン」
 若者の背後に、また一人、青年が立っていた。頭半分ほど背の高いその青年は、少し微笑んで、霧に隠れた化け物を見据えている。
「そうですか。――では、いつものように。……援護しますよ、クリス」
「……待てよ、それは?」
 と、若者――クリスが首を傾げた。トランと呼ばれた青年の脇腹からは、どす黒い染みが広がっていたのだ。
「ああ。ちょっと元気なお客さんとやり合っちゃって」
「だったら、これ以上無茶はするな。これ以上は還って来れなくなる」
 はっはっは、と朗らかに笑う横で、クリスはぴしゃりと告げた。多分、やんごとない連中と戦闘になって、怪我をする羽目になったのだろう。それでも平然と立つ辺り、すでに大事なのだが。
「そうはいっても、無理をしないと勝てる相手じゃないでしょう?」
「――くるぞ」
 霧が晴れ、視界がクリアになっていく。後には無数の氷槍が檻のように化け物を取り囲んでいるのが見えた。
『コンナ、槍ゴトキニ……!』
 閉じ込められた化け物の腕が、ひゅんと唸りを上げた。遠心力を得て力を増したそれは、無数の氷の槍をいとも簡単に砕いていた。澄んだ音を立てて、砕け散りながらきらきらと輝く破片。。
 だが――。
「無駄ですよ」
 トランが、うっすらと笑みを浮かべて言った。いつも見る笑顔とは全く異なる、冷徹で酷薄なそれのまま、無造作に右手を水平に振る。すると、突如二人の目の前に、巨大な大地が隆起した。
「わたしの『領域』の中では――何人たりとも、傷つけさせません」
 宣言したトランの言葉通り、化け物が放った渾身の一撃は、大地の壁に遮られた。がらがらと崩れ落ちた後には、何の傷一つ負っていない二人が立っているのみだ。
 不意に、クリスの方が動いた。右手からめきめきといびつな音をさせながら、何か角のようなものが生えてくる。やがて、その優しそうな風貌からは想像もつかない無骨な一振りの剣に変化していた。
「クリス」
 トランが呼んだ。頷き、クリスは手の中の剣を構え、軽くステップを踏んで走り出す。
「おおおおっっ!!」
 裂帛の気合と共に吼えて、横薙ぎに振るわれた剣が、化け物の肉体を一刀のもとに斬り伏せていた。


「――これで、任務は完了か」
 ぐずぐずと溶けていく化け物だった死体を眺めているクリスに、また別の声が割り込んできた。先ほど、氷の槍を打ち込んだ声の主と同じだ。
「ああ。――ありがとう、レント」
 振り返り、クリスが小さく微笑む。足音も立てずに近づいてきた青年は、色素の抜け落ちた銀髪で、瞳だけはトランと同じ暗い紫の色をしていた。背格好も、殆ど彼と変わらない。
「……しかし、彼女は?」
 レントと呼ばれた青年が、時間が止まったように制止している少女を見た。その目には生気がなく、何をしても反応は返らない。
「ああ。その点はご心配なく。手配しておきましたから、記憶処理はあちらに任せましょう。それから、わたしたちだけで何とかした黒服のこわーいお兄さんたちも」
 と、携帯電話を懐にしまいながらトランが言ってきた。クリスはほっと安堵のため息をついて、未だに動かない少女を見る。
「――けど、良かった。無事で」
「だが今回のことが、トラウマになっていなければいいのだが」
「その辺は、あちらを信頼しましょう。我々にはそうすることしかできません」
「そうだな」
 頷きあうと、クリスガゆっくりと目を閉じた。意識を集中するかのように、表情が真剣なそれになる。
 時間にして、ほんの一瞬の出来事だった。辺りを支配していた異質な静寂が消え、少し離れた大通りから、微かに雑踏の音が聞こえてくる。

「いや、こない……え?」
 気が付いた少女が、怯えた声をあげる。だが、すぐにその異変に首を傾げた。
 無理もない話だ。ついさっきまで化け物に追い詰められたと思っていたのに、今自分の目の前に立っているのは、三人の若い男性なのだ。
「――大丈夫ですか? 気分悪くなってたみたいですけど」
 少女の前でしゃがんで、金髪の少年が尋ねてきた。外国人特有の変なアクセントもない、流暢な日本語である。
「あの、でも。確かにさっきまで、化け物が」
「きっと、悪い夢にでも見ていたんじゃないでしょうか? 俺たちが見つけたときには、貴方一人しかいませんでしたから」
「あの、あの。でも……」
 尚も食い下がる少女の言葉を遮り、甲高いサイレンの音がこちらに近づいてきた。続いて、ばたばたと走る音やストレッチャーの車輪が転がる音が聞こえてくる。
「あの、先ほど通報されたのは」
「ああ。それは、わたしです」
 救急隊の制服を着て、ヘルメットを被った男が尋ねると、金髪の少年のすぐ傍にいる青年が手を上げた。よく見れば端正な顔立ちなのだが、残念なコトに優しそうな表情のほぼ右半分が、長い髪で隠れている。
「ご協力、感謝します」
 敬礼の形を取って、隊員のひとりが言った。その時、その青年の耳元で、何か唇が微かに動いたような気がしたが、生憎少女には全く判らなかった。
 少しの錯乱状態から抜け出し、暫くして落ち着いた少女は、自分の状態――実は腰が抜けているのだった――を確認すると、救急隊員の手伝いでストレッチャーに横になって救急車に乗り込んでいった。

「……あの隊員、何て?」
「ああ。あれですか」
 ふと尋ねてきたクリスに、トランは小さく笑みを浮かべながら答える。
 穏やかで優しい笑顔。それがこの男の本質の部分なのだろう、と思う。
「――『彼女の方は、こちらで責任を以って処理します』――だそうです」
「そうか」
 だが、そんな優しい笑顔の裏に、トランは自身の内にとてつもない力を秘めている。日常から別れを告げ、非日常の中で生きるための力。
 そんな力を、レントも――自分自身も持っている。日常と非日常の境を渡り、己が己であるために戦う為の、呪われた力。
 いつかは、あの化け物のように自分たちも同じ『化け物』に変貌してしまうかもしれない。ただ、その時が来るのが何時になるのか、判らないだけなのだ。
 だからこそ。
「彼女……」
「?」
 ぽつり、呟くクリスの言葉に、トランとレントが揃って振り向く。じっと見守る二つの視線に、あどけない年相応の笑顔で応えるように続ける。
「忘れてくれると、いいな」
「――ああ」
「そうですね」
 頷くと、トランの方が先に動いて、クリスの肩をぽんと叩いた。
 もう戻れない自分たちだから、せめてあの少女のような、日常を歩く人々を守りたい。
「さて、帰ったら早速報告書が待ってますね」
「うぁ。そういえば、そうだ」
「何を言うんだ、クリス。任務失敗したよりかはマシだろう」
「げぇ、始末書二十枚っすか」
「まあ、それぞれの今回のノルマは、報告書十枚ってところで」
「代筆……無理だろうなあ」
 軽口を叩きあいながら、彼らは日常の中へと還っていった。

Information :
ある意味反則技(苦笑)。ルージュ+ダブクロのダブルパラレルもの。
ノエルとエイプリルをオーヴァードにするには忍びなくて、
野郎三人をメインに据えたのはここだけの話。