思い出と鋏と散髪屋



 きっかけは、ほんの些細なものだった。
 何にもないところで、ふと目の前の魔術師が顔を顰める。
「どうした、レント」
「いや。お前には何ら関係のないことだ」
 首を傾げて問うと、抑揚のない口調がきっぱりと切り捨てた。魔術師――レントは、ギルドマスターである薔薇の継承者の命令には非常に忠実だが、その他の人間――例えば自分やエイプリル――に対しては判りやすいほど高圧的で見下した態度を取る。今でこそかなり固さや無表情な部分は消えているが、それでも彼の基準では、自分たちはかなり下の位置にいるらしい。
 と、レントがまた、顔を顰めた。そういえば先ほど、少し強い風が彼の前髪を嬲っていった気がする。
 クリスの脳裏に、一つの推測が思い浮かんだ。それは、もしかすると。
「ひょっとして、髪の毛が目に入ってないか?」
「ほえ?」
 口をついて出た指摘に、何故か薔薇の継承者である少女、ノエルがまじまじとレントを見る。ふわふわと緩く癖のついた髪は、随分と長く伸びていた。伸ばしてみれば、鼻の頭まで届きそうな長さになっていることだろう。
「やっぱり。レントさん、髪伸びましたね」
「いえ。継承者殿、わたしの髪のことはお気になさらず」
「そうはいっても、ノエルのことだ。気にするだろうさ」
 丁重に心配無用と訴えるレントに、エイプリルの渋い声が遮った。彼女の首筋には、すでに飾りとなっていたはずの首輪はもうない。
「それでは、こうしたほうがよいかと思われます」
 そう言うと、レントはおもむろにつばの広いフレンドベレーを取り、前髪をかきあげて被り直した。
 一瞬、ギルドメンバーたちの間に沈黙が横たわる。それを一発で破ったのは、ノエルの素っ頓狂な声だった。
「だ、ダメですよレントさんっ! 間抜けすぎますっ!」
「うわ、ノエルさん容赦ねぇっ!?」
 クリスもつられて、的確なツッコミでノエルに返す。
「ダメでしょうか。これなら、前髪が邪魔にならずに済むのですが」
 至極真面目にのたまうレントの姿は、ノエルが評するとおり間抜けな風貌となっていた。
 やや広めの綺麗な額が丸出しである。これは流石に、エネミーなどにかち合ったら、爆笑されること必至だ。
「あ、あのぅ、レントさん。髪、切ったらどうですか〜?」
「ふむ。継承者殿がそうおっしゃるのなら、それも仕方ないでしょう」
 このコロっと態度を翻すあたり、さすが悪の改造人間といったところか。……しかし『悪の改造人間』とは、ちっとも関係性がないが。
 それはともかく、ノエルは未だにデコ全開のレントの姿を直視していない。見たら最後、その場に突っ伏して爆笑するのは間違いないだろう。
「……とりあえず、元に戻したらどうだ?」
 渋く震えるエイプリルの声が、レントに提案した。よく見ると、彼女の冷ややかな口元はひくひくと引き攣っている。どうやら笑いたいのを何とか堪えているらしい。
 言われたとおりに元通りに被り直す彼にほっと息をついて、仕方ないといった口調で。
「どうせなら、揃えようか? レント」
「何?」
 ぴくり、レントの流麗な眉が動く。どうやら、神官の自分に髪を切られるのはお気に召さないらしい。気持ちは判らないでもないが、そのあからさまな態度に、ちょっと傷つく。
「そうそうそうっ、そうですよ〜。レントさん、髪切って貰った方がいいです〜」
「いえ、継承者殿。この野良神官にやらせるくらいなら、自分で」
「野良神官じゃねぇよっ!?」
 それは前の話で、今は神官の地位も戻っている。ダイレクトな嫌味に電光石火のツッコミをかます横で、ノエルが大丈夫ですよぉ、と呑気な声を上げた。
「大丈夫ですよ、レントさん。クリスさん、髪を切るの上手ですから」
「そうだな。……ギザギザのガタガタな前髪にしてた頃よりは、ずっと上達してるしな」
「いらん事言わなくていいんだエイプリルっ!?」
 余計な一言にざっくりガラスの(嘘臭いが)ハートを傷つけられて、乱れた口調で叫ぶ。
「……それを言われると、余計に心配なのですが。継承者殿」
 文字通り困ったような顔でノエルに言うレントもそうだが、それでも彼女はにこにこと言葉を繰り返した。
「だって、あたしも切って貰ってるんです。上手ですよ? クリスさん」
 その最後の言葉に、どうやら納得はいったらしい。納得だけは。
 ちらり、こちらを向いて。
「……戦闘に差し支えるような頭にさえしなければ、髪を切らせてやってもいいだろう」
 やはり見下したような口調で、レントはそうのたまった。


「――さてと」
 とりあえず、と取った宿の一室。レントがちょこんと椅子に座ったのを確認してから、クリスは自分のザックから大きな布を取り出し、勢いよく広げた。雑貨屋で一目で気に入り、買い求めたそれは目にも優しい水色だ。
「苦しかったら言えよ」
「うむ。苦しい」
「巻く前に言うなよ。……ったく」
 軽妙なやり取りをしながら、レントの首元に布を巻きつける。苦しくならない程度に加減してから、宿の女将に借りた霧吹きを手に取った。
「それは、霧吹き……? 髪を切るのに、何故そんなものが?」
「髪を湿らせた方がやりやすいんだ。ちょっとじっとしてろ」
 いちいち尋ねてくるレントの問いに律儀に答えながら、クリスは髪の一房を手に取って、霧吹きで髪を湿らせていく。さらに髪をくしゃくしゃとかき回しながら、念入りに。
「ん。こんなもんか」
 頷いて、クリスはすっかり手に馴染んだ鋏を握った。鈍色に光る、あいつから受け取った大切な品。
「……2センチ……いや、3センチかな。それくらいで揃えておこうか」
「うむ。それで」
「じゃあ、あんまり動くなよ。変な頭になっても、私は責任を取らないからな」
「何ということだ。これだから」
「それはお前の自業自得だ」
 お決まりの台詞を遮って、クリスはきっぱりと言い切った。出鼻を挫かれたレントが口を噤むのを面白そうに眺めながら、手櫛で梳いた髪の先を指で揃え、まずは手始めに、とちょんと切った。
 しばらくは無言が続いた。
 レントは何も言わないし、クリスは手元に集中している。
 部屋の窓辺から差す日の光は、適度な明るさと暖かさを与えてくれている。手元がよく見えるし、ぽかぽかと気持ちいい。どこかのんびりとした時間だけが流れていく。
「……誰に教わった?」
 ふと、レントが尋ねてきた。鋏を動かすのを一旦止めて、クリスはちらりと彼を見る。
「これも、神殿は教えてくれるのか?」
「――ああ。――いや、これは、別の奴から教わった」
「……そうか」
 問いを重ねられて、軽く首を振ると、静かな口調で答えた。レントが小さく呟いたきり、また沈黙が訪れる。
 作業を再開したクリスも、また無言のまま。
「……約束、してたんだ。そいつと」
「……?」
 次の沈黙を破ったのはクリスだった。視線だけで続きを促され、少し懐かしい気分で。
「教えてくれた奴のな。髪、切ってやるって約束してたんだ。……約束、守れなかったけれど」
「そう、だったのか」
「ああ」
 レントの声がいつもよりも少し穏やかに聞こえて、素直な気持ちで頷いた。

 まだ、彼を失った痛みは癒えていない。
 今でも時々悔やむ事がある。何故あの時、彼を一人にしたのかと。
 すべては終わった話だ。どれほど悔やんでも、彼が戻ってくる事はない。
 ただ、思うことがある。
 あの時、失うことがなければ。共に旅を続けられたかもしれない。髪だって、切ってやれたかもしれない。

「クリス=ファーディナント」
 名前を呼ばれ、クリスは我に返った。何時の間にか、後ろ向きの思考が脳裏を満たしていたのを、レントの声が引っ張り上げてくれた。
「約束は、果たしたのではないか?」
「え?」
 意外な声に、彼の決り文句である『不可解』が頭を過ぎる。それにも係わらず、真後ろに立っている自分からは見えないはずの顔が、優しい笑みを浮かべている――ような気がした。
「わたしが、その『彼』の代わりに髪を切って貰っている。それで、約束を果たしたのではないのか?」
「……ん」
 ほんの少し。救われた気がした。レントの何気ない言葉が、ちくりと刺した心の痛みを癒してくれる。
「そうかな」
「そうだ、そうでなければ、ならない」
 断言するのは、レントなりの優しさなのだろう。その一言一言が心に染みていく。
 判りすぎているのだろう。レントは、彼のデータを元に作られた人造人間だというから。
 その頭脳には、培ってきた戦闘技術や一般的な情報なども、全て入っている。そして、彼が持っていた記憶も。
 ――だからだ。
 クリスは、手を止めたまま考えた。
 時々、こんなにも優しいのは。穏やかな時間を与えてくれるのは。
「……ありがとう」
 そっと小さく囁くと、レントはまたいつもの無表情に戻っていた。
「いいから、早く済ませろ。そろそろじっと座っているのも辛い」
「そうだな」
 苦笑いを一つ浮かべ、クリスは新たな気持ちで鋏を握った。


「できたぞ」
「うむ」
 巻きつけていた布を外してやると、レントはどこからか鏡を取り出し、クリスの仕事を確認する。特に変な頭にはしていないつもりだが、やはりこの瞬間は少し緊張する。
「変な頭にするつもりはなかったのだな」
「当たり前だろ」
 一つ頷き、納得のいったように呟いたレントに、クリスは手を振って答えた。結局3センチほど揃えた髪は、初めて会い見えたときと同じくらいの長さだ。
「……約束は、果たせたかな」
「ああ。きっと」
 切った髪の毛を片付けながら呟いた言葉に、レントが反応を返す。
 その何気ない言葉に、また小さく微笑んだ。

Information :
こちらは反対に散髪してあげる、クリスの話。
 実はさりげなくレント初。こういう淡々とした、無表情系のキャラは台詞回しが難しい。